神奈川県相模原市で起きた障がい者施設での殺傷事件は、ネット社会の持つ影の部分を際立たせた結果となりました。いまや電車に乗ってもほとんどの人が下を向いてスマートフォンなどを操作している光景も珍しくなくなりました。最近配信が始まったゲームアプリでも、歩きスマホの危険性が指摘されているにもかかわらず、結構な事故が起きているようです。この現実は私たちが日頃「つながり」と呼んでいるものが、ネットによって増大しているのではなく、実は個別に分断しても不自由が無くなっていること(つながらなくてもなにも不自由がないこと)を象徴しているにすぎないという印象があります。そのうちに携帯端末で情報を得ていなかったために災害で命を落とすような事態があっても、誰も関心を示さないというような、おかしな状況になるかもしれません。
この頃強く感じるのが、このような情報機器(IT技術によるもの)は、人の能力を拡張するのではなく、人の能力を代替する形で能力そのものを奪っているのではないかという点です。私たちは道に迷うとためらわずにナビを使用しますし、わからないことがあればすぐに検索してしまいます。一見簡単で便利なことのように思いますが、それによって私たちは「太陽の位置や植生で方位を判断し」たり、「脳に刻まれた過去の記憶情報を検索すること」によって脳を活性化する機会を失っているのではないでしょうか。これって本来高めるべき(あるいは維持すべき)人の能力を損ねているのではないでしょうか。いや、もちろん将来はこのようなIT技術が肉体と一体化して機能するものを人間と呼ぶのだというような理屈をこねる人がいるかもしれません。でもそれって本当に人類にとって望ましいことなのでしょうか。
間もなく開催されるリオデジャネイロ五輪は、人の肉体的能力を高めた結果、選ばれた人たちがたくさん活躍する場です。この「肉体」が際立てば際立つほど、心や精神との差を意識せざるを得ない時代になった気がします。